1からの続きです。
「松岩」とは普通「まついわ」と言い、炭鉱で石炭を採掘する際の副産物として厄介がられていた、いわゆる木の化石の「珪化木」のことを言います。
「松岩菩提」では「まついわ」とは言わずに「しょうがん」と言い、続けて「しょうがんぼだい」と言います。
墓石のかわりに、松岩が使われていたことからこの名前がついたようです。
以下の文章は、小竹町役場から頂いてきた「松岩菩提供養塔」小竹町合盟供養塔管理組合の小冊子から一部引用させていただきました。
元々ここには古河目尾(しゃかのお)炭鉱の共同墓地があったそうですが、1992年にゴルフ場の造成工事によって破壊されたそうです。
そしてそこには朝鮮半島から強制連行された人々も葬られていたそうで、これを知った地元の日本人と在日コリア同胞が協力、ねばり強い取り組みによって、1994年、墓地を復元し遺骨を納める供養塔を建立したそうです。
以来、今日まで、日本人と在日コリア同胞との協力によって、毎年春の彼岸と9月中旬の日曜日に供養祭が行われているとあります。

「松岩菩提供養塔」です。
周りには墓石が囲む形で並べられていて、綺麗に整備されていました。
奥には立派なトイレもあり、掃除が行き届いていて、きちんと管理されているようでした。

松岩菩提の碑です。
後ろには「松岩」(珪化木)の墓標がたくさん並んでいます。
碑に刻んである文を読んだ後、合掌して祈りを捧げ、この地を後にしました。
碑の文章を載せておきますね。
「松岩菩提供養塔碑文」
遠賀川流域は、かつては穀倉地帯として、人々は素朴な暮らしを営み、石炭が発見されてからもほとんどが民用で暮らしに大きな変化はなかった。しかし、明治時代になって、日本は急速に資本主義の道を進み始めたため、当時、エネルギーの中心であった石炭は、殖産や軍事の面に需要が拡大されてゆき、この流域は一躍注目を集めることになった。
国の保護を受けた大資本がつぎつぎに進出してきて、流域はは産炭地として「筑豊炭田」と呼ばれるようになり、様相は一変していった。
大資本の利潤追求は安全対策などよりも、労働力確保と労務管理に重点が置かれた。特に、戦前・戦中においては、労働力は極度に不足した。国家総動員法や国民徴用令などを公布して、労働力の確保に努めたが、戦局はますます苛烈になり、健康な者はつぎつぎ軍に召集されていったので、応急策として、徴用の名を借り、朝鮮半島から若者を強制連行してきて、切羽など危険な場所で過酷な労働に従事させた。
特に、炭鉱は労働条件の悪い上、炭塵・ガス爆発、構内火災、出水、落盤など規模の大きな災害が頻発して多くの犠牲者を出した。
ここは、こうした犠牲者を葬っていた古河鉱業目尾炭鉱の墓地であった。墓石には戒名も付けられず、代わりに職種が刻まれていたり、墓石代わりに松岩が置かれていて、埋葬されている者を確認することすらできない痛々しい有様であった。
この墓地が開発のため改葬され、炭鉱の歴史の証が消滅しようとしていた時、これを憂え全ての炭鉱犠牲者の供養を発願した地元住民や市民団体と、同胞犠牲者の慰霊と復権を望む在日コリア同胞が協力して、この地に供養塔を建立することにした。
ここに犠牲者の冥福を祈り、炭鉱の歴史を教訓として、命の重さを訴え、再びこのようなことを許さないための墓標であることを願う。
1994年8月
小竹町合盟供養塔管理組合